玉川ラグビーの夜明け
1929年(昭和4年)の玉川学園開校当初から、玉川学園にはラグビーをしていた方々がいたと語り継がれてきた。OB会誌「丘陵」100号~102号に石田襄先生、高井真先生が記された「玉川ラグビー創世記」の記録に旧制中学時代の先輩方のお話が出てくる。
稲津厚生先生による以下の写真発見により、少なくとも昭和7年には丸玉の校章を胸に付けた青年達がいたことが裏付けられた。現在、玉川の丘で楕円のボールが蹴り始められてから、約95年の年月が経過していることとなる。



写真にあるペナントは、玉川ラグビー創立30年を記念し作られたもの。逆算すると1929年(昭和4年)。開校時にラグビー部が存在していた事を裏付ける貴重な資料である。また丘陵ラグビークラブの名称も見受けられる。

大学ラグビー部創部
太平洋戦争で一時中断されていたものの、戦後、新制玉川大学が設立されて間もない1948年(昭和23年)の秋、玉川の丘で再びラグビーボールを追いかける姿が…大グラウンドのスタンドの上にあった体育館の物置から、使い古したラグビーボールが見つかった。
そのボールを修理してグラウンドに持ち出し蹴り始めたのが、体育の橋本道先生と農学部一回生の藤井龍二であった。その様子を見て数人の学生が加わり、また、それを伝え聞いた旧制中学OBの皆さんがジャージやスパイク、使い古しの用具を持参して練習する風景が見られるようになった。その内、彼らの情熱は当然のごとく、「どこかと試合をしたいものだ」との一念から、次第に「ラグビー部」創設へと動き始めるのであった。
まずは、旧制中学OBを主体に大学生も加わったチームを編成し「丘陵クラブ」の名称で協会に加盟した。現在、玉川ラグビーのOB会が伝統的に、今なお「丘陵クラブ」の呼称を用いているが、「丘陵クラブ」の名称はこの時に由来するものである。
「丘陵クラブ」の第一回目の試合相手は、青山学院のOBチーム。試合は大敗であったが、試合が出来る喜びと共に、一層ラグビー熱が盛んになっていった。当時、ラグビー協会もラグビーの隆盛を願って、盛んに旧制以来の古い大学にラグビー部の復活を働きかけていた。また、旧制中学OBの皆さんも是非「大学ラグビー部」を結成しようとの事になった。
「ラグビー部」創立、そして協会加盟となると幾つか の難題があった。まず始めに、小原國芳学長の承認を頂かなければならず、部長・監督の役員や学生側の責任体制を決める事から始まった。部長については小原哲郎先生にお願いし、監督は橋本道先生に就任頂く事を内定し、学生側は主将に藤井龍二、マネージャー石田襄となった。学長の承認を頂く為に、哲郎先生や橋本先生の助言・助力を頂きながら、想定質問・問答集を作成し準備した。いよいよ迎えた当日は、事前準備の苦労をよそに、想定とは大きく異なり心構えといったようなものが中心で、次のようなことを國芳先生と約束をした。
一、ラグビー馬鹿にならぬということ。
あくまでも全人教育の一環としてラグビーを捉えること。授業はラグビーのために欠席しないこと。玉川の中心的な行事・教育をおろそかにしないこと。デンマーク体操や合唱と両立させること。
一、1日に2時間以上の練習はしないこと。(激しいスポーツであるが故に)
一、対外試合で勝つ為のプレーをしないこと。(ラグビーは紳士のスポーツだろう)
一、ラグビー特有の精神面を尊重すること。(ラグビースピリッツをよく体し、実践に努力する)
一、現在の玉川は、経済的に支援してやれないが、そのことを不満に思わぬこと。
大難産であると思われたが、ひとえに、全ての責任者として哲郎先生が保障してくださったお陰であった。学長の承認が得られ、大難産であると思われた体育会第1号としての部活動が正式に認められたものの次の難題が待ち受けていた。ラグビー協会に正式に加盟となると、入会金や年会費を納入しなければならず、また、ジャージの作成や登録・ボールを始め練習用の各種用具を調達しなければならなかった。
旧制中学のOBの皆さんから卒業生の名簿と近況を調査頂き、藤井主将とマネージャーの石田は寄付集めに10日間程東京中を駆けずり回った。旧制中学のラグビー部OBをはじめ、卒業生から1口・2口と浄財が寄せられ当時のお金で2万8千円になった。当時の私立大学の授業料は年1万円程であったので、この様な大金を拠出して頂けた事は、大感激であると共に感謝の念で一杯であった。お陰で、ラグビー協会に加盟し、協会費も納入し、ジャージやボール、用具も取り揃えようやく「玉川大学ラグビー部」の体裁が整った。1949年(昭和24年)秋、70年前の事である。
1949年(昭和24年)、協会に加盟したものの公式戦に出場していない。設立当時の部員数は大学7名・高等部6名の計13名。絶対的な部員数不足の為、大学チームとして対外試合が出来るような状態ではなかった。
翌、1950年(昭和25年)も、部員数不足から大学生単独でのチーム編成が出来ず、高等部生を加えたチームでの試合を公認して頂けるよう協会にお願いに行った。「玉川大学ラグビー部」としての記念すべき第一回の公式戦対戦相手は、抽選の結果、学習院大学と決定した。学習院大に高等部生参加の了解を頂き初の公式戦が行われた。我がチームのメンバー(高等部生含む)は、FW、藤井・今栄・高井・石田・芳賀・飯塚・石井・遠藤、HB、小野・堀、TB、沖本・小林・明石・白井、FB、平山であった。試合結果は、我が方得点なく、先方40数点の大敗であった。大敗ではあったが、公式戦が戦えただけで全部員が大満足であった。
当時の大学ラグビーは、早稲田・慶応・明治・立教・東大などの旧制大学10校程度が相互に行う対抗戦と、その他の大学が新制大学全国大会の予選として出場するトーナメント方式の試合のみが公式戦であった。故に、予選一回戦で敗退であったので、この年の公式試合はこれだけであった。高等部との混在チームとしての大学ラグビーはその後も数年続いたが、後に、大学だけでチーム編成が出来るようになっていった。
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高等部ラグビー部創部
大学ラグビー部が単独で公式戦に臨む様になって間もない1957年(昭32年)、大学を卒業し中学部の新任教諭となった飯塚誠市先生が、中学部3年生を集めてラグビー同好会を立ち上げた。そのメンバーに神田晴正、魚住網三、小島恂、三縄清志等がいた。翌年、彼らが高等部に進学した1958年(昭和33年)高等部ラグビー部を設立、他校から入学した杉山秀雄、岡村正敏、村松剛男、石口敦等が入部、1年生だけでの発足であったが何とか15名の部員数が確保できた。
当時高校ラグビーの強豪校であった「保善高校」の高木校長、監督の新井先生にご指導を賜り、高校体育連盟に推薦頂き加入登録した。また、先輩である小室芳弘によって、「大西鉄之助氏」の書物抄読と解説、基礎プレーを徹底的に叩き込まれ、その秋、1年生のみで東京農大付属高校との歴史的な初戦が行われた。
一年生ながら主将を務めた神田晴彦はその後高等部の3年間、また、大学4年生の時にも主将を勤め玉川での学生ラグビー7年間の内4年間を主将として、当時のメンバー達と共に玉川ラグビーの揺籃期を牽引していった。

この写真は、高等部卒業を記念したタペストリー。ラグビー部第2期、1962年3月卒業と記されている。この卒業生たちは、1959年4月入学となる。つまり1958年に創部している証明である。







